第三話 黄金の時 (帝都ベレーネ前平野奇襲戦)

 



 日の出。青々しい草花が、黄金に包まれるとき。

 原野を夜通し駆けた。斥候すら出さなかった。
 出したところで、追いついてしまう。斥候とほぼ同じ早さで駆けている。いや、この軍以外の、どの軍よりも早く駆けている。
 休息も一切許さなかった。兵糧は、調練のために持たせたものだけである。それでも、兵はよく耐えていた。
 駆け足である。兵は耐えられても、馬は持たない。全力で駆けさせたのだ。一つ遅い早足ならば、たとえ一昼夜であろうとも良く鍛えた馬は走りきる。気を遣い、それだけの馬を揃えた。しかし、それだけでは足りぬ。通常、早馬で三日という道を一日で駆けようというのだ。

「見えた」

 牧場、と言っても小さなものである。中原に点在する牧に紛れるようにして、用意させていた。父は馬の大商人である。ひそかに牧を作り、その中に三千頭の換え馬を用意させた。まさに、乾坤一擲の奇襲なのだ。
 兵を待たせ、ルイスは一人で牧場の隅にひっそりと建つ小屋に駆け込んだ。旗など出させていない。だから下手をすると、盗賊か何かと勘違いされているかもしれなかった。
 出てきたのは見知った髭だった。父の若い頃から、父と共に商いを大きくしてきた男だ。小さな頃は、ルイスも色々と迷惑を掛けた。血こそ繋がっていないが、父とは兄弟の仲だった。つまりはルイスの叔父である。黒々としていた自慢の髭が、今では真っ白に染まっている。

「いよいよ、ですな」

 ルイスは一度、深く頷いた。にかっと、叔父が笑う。これから戦だというのに、ルイスはつられて一緒に笑った。
 それで不思議と、気負っていたものが綺麗に失せた。失せて初めて、気負っていると気付いた。

「三千頭、既に鞍は乗せてあります。今日だろう、ということが不思議とこの老いぼれにも分かったので」

 そんな言葉、よしてくれよ。喉まで出かかったが、かろうじて声に出すことはなかった。叔父の目が、刺すように真剣だったからだ。
 だからルイスは、もう一度深く頷いた。それから、踵を返した。あまり長居は出来ない。この場所が帝国に知れれば、一溜まりもなく全てが潰される。働く者も、無事では済まない。叔父は、この後直ぐに撤収を開始する手筈となっている。

「一刻で兵糧を取り、出発する。今後は、一切の休みもないものと思え」

 静かな声でそう告げた。兵達の先頭でそれを聞いたベリアは、ただ深く頷いた。

 日の出と共に出発することとなった。昼時、初めて斥候を出し、他の兵には稜線に隠れるように休止を命じた。一切足を緩めなかったのだろう、斥候は半刻で戻ってきた。ちょっと驚くような早さだ。余りの速さに、見張りに立たせていた者が先ほど出たばかりの斥候とは思わなかったほどだった。
 斥候の乗っていた馬は、到着と共につぶれた。兵も転がるようにして駆け寄ってくる。眼が、既に死線を越えていた。
 ここでまず一刻、とルイスは考えていたのだった。

「前方四十里(約十八キロ)に敵本陣。およそ八万。うち騎馬は一万。敵は散開して撤収の準備に追われており陣すら敷いてはおりません。我々は、勝てます」

「勝つさ、もちろん」

 言うと、にこりと笑って兵が倒れた。死んでいる。戦わずして兵を殺したことに、ルイスは僅かに眉をしかめた。
 これも戦である。そう思いこんだ。

「ただちに出発する。先頭は私。ベリアは最後尾につき、遅れた者は斬れ」

 地が一斉に動き出した。死んだ斥候の魂が乗り移ったかのように思えた。麾下が自身の体になったとさえ感じた。
 遅れるものなど、出はしまい。しかし言わずにはいられなかった。すでに戦は始まっている。
 なだらかな丘を二つ越える。迂回するといくらか背の高い丘があり、その向こうに敵の本陣はある筈だ。
 途中、敵の斥候とすれ違った。旗など出していない。まさか敵だとは思いもしないのか、のんびりとしたものだ。相手にせず、そのまま横を走り抜けた。
 最後の丘を越えた。さすがに地を埋め尽くすような大軍だった。しかし、いかにもゆるい。歩哨すらもお座なりなものだった。完全に、戦勝に浮かれている。その中で、唯一何重もの柵に覆われて堅く守られている場所があった。本陣。カインの御旗。

「突撃」

 戟を振り上げ敵の本陣に向けて降ろした。一気に丘を駆け下る。騎馬隊がこの身と一体となった。敵が一瞬で近づいてくる。唖然としたその顔まではっきりと見える距離になった。敵は矢さえ構えることが出来ない。そんな余裕は与えない。なだれ込む。抵抗はまるでなかった。陣を組んでぶつかってくる者すらいないのだ。呆然と見詰める横を三千騎が駆け抜けていく。前方。慌てて兵が集結しつつある。逃げないのか。算を乱して逃げはしないのか。必死の形相で逃げ惑った幾人もの盗賊を思い出しルイスは笑った。その笑いは吠え声に似ていた。褌のまま、槍を持ていきなり飛び出してきた者を切り伏せる。果敢である。流石に寡兵で連合を跳ね返した事はあった。
 その一人を皮切りに抵抗が急に激しいものとなった。何か堅いものにぶつかったという感じで、しかしそれも三千騎の圧力に耐えかねたように四方に散った。しかしばらばらに立ちつくしていた敵の兵がまとまって道を遮ろうとしてくる。敵の本陣はまだ遠い。槍を持って突きかかってくる兵を幾人もルイスは戟で宙へ掬い上げた。
 二里にも三里にも渡る布陣だった。しかし、まともに具足を付けているものすら少ない。戟を振り回す。首を跳ね飛ばす。血が噴き出す前にその横を駆け抜けている。ぬるい、こんなものか。いくつも悲鳴が上がった。それでも怯まずに新たな者がぶつかってくる。次々と切り伏せた。股締め上げる。もっと早く。もっと強く。心得たとばかりに愛馬が力強さを増した。遮ろうとした者を、その馬蹄で踏みつけていく。
 勝てる。もう一度思った。勝てる。目の前に、はっきりと本陣だと分かるそれが見えた。天下が、そこにある。流石に兵を横に並べ、揃って槍を突き出している。左腕を上げた。楔に広がっていた騎馬が、ルイスの後ろに一直線に並ぶ。揃えて並べられた槍の隙間をルイスは鋭く貫いた。その後ろに並んで一斉に騎馬が続く。最後尾のベリアまで駆け込んだ時点で、鮮やかにそれが横へと広がった。
 しかし、さすがに堅い。押し包むように槍が戟が兵の間から突き出されてくる。それでも、一直線に陣中を貫いた。途中で激しい抵抗に遭い、僅かに中心を逸れた。野に飛び出す。あの中心、そのさらに中心に帝がいる。弧を描くようにして迂回し、再びつっこんだ。最後尾にいるベリアと、はっきりと眼があった。その全身が血で染まっている。ベリアが何か声を上げた、良く聞き取れない。その時、ルイスは再び人の壁に飛び込んでいた。
 駆け込んでいく。頭上で戟を振り回した。幾つもの首が宙を舞った。カイン、帝。旗本に囲まれ、じっとこちらを見詰めている男。きらびやかな具足。馬にさえ乗っていない。雄叫びを上げた。邪魔する者はなぎ倒す。後続の麾下すら付いてこれない。カイン。それしか目に映らなかった。旗本。切り伏せる。じっとこちらを見詰めている痩せた男。戟を防ぐように構えた剣ごと、ルイスはその首を跳ね上げた。落ちてきた首を、戟の穂先に突き立てる。戦場から、全ての音が消え失せた。
 不意に、勝利の快感が爆ぜたように全身を覆った。赤い原野。まぶしいほどの日の光。動揺が敵陣に広がるのがはっきりと肌で感じることができた。
 勝った。勝ったのだ。
 抵抗もなく陣を抜けた。続々と旗下の兵が駆け抜けてくる。一里(八百メートル)ほど走り、一度隊をまとめた。みな、全身を血で濡らしている。二千七百幾らか。三百ほどは討たれたことになる。それでも、その十倍は斬っただろう。勝利が、全員を覆い包んでいた。さすがに息は荒い。その息を整えてから言った。

「このまま帰還する。みんな、良くやった。大勝利だ」

 言ってから、妙なことに気付いた。大将の首を取ったのに、敵兵が乱れない。
呆然としているのか。それにしてはその時間が長すぎる。最後に敵陣から飛び出してきたベリアが、血相を変えて寄ってきた。

「ただちに撤退を。あれはカインではありません。囮です、あれは弟の」

 何のことを言っているのか、束の間分からなかった。囮。馬鹿な。しかしベリアは囮だと叫び続けている。

「まさか」

 呟いたのとほぼ同時だった。丘の稜線から、わっと兵が湧き出した。騎馬。斥候の言っていた一万騎。いや、違う。
敵陣の中に入ってしまえば敵の騎馬は入ってこれない。味方をも蹴散らしてしまうからだ。だから気にしていなかった。しかしそれは、今も眼に捕らえている。見落とすような下手はしていない。
 その他に、三万。稜線から湧きだした騎馬は、三万はいる。それも、もう殆ど包囲されかけていた。囮。もう一度その言葉が頭に浮かんだ。
 罠だったのか。カインは、奇襲してくることさえ、読んでいたのか。初めて、全身から汗が噴き出した。冷たい汗だった。

「確認は後だ、とにかく突破する」

 かろうじてそれだけを言った。すでに敵は駆け始めている。かわしきれない。逆落としの勢いを身に受けるのは、今度はこちらの番だった。

「怯むなっ、とにかく駆け抜けることを考えろ」

 叫びながら、それでも三、四人は斬った。しかし、凌げたのは僅かな間だった。耐えきれずに方向を横へと反らす。そこにも敵はいた。ただ同じ高さである。逆落としの勢いからは避けられる。駆け抜けた。首を跳ねる余裕はなく、斬るだけ斬り、それでも間に合わず柄で馬から叩き落とした。幾つもの刃風が体を掠めていく。味方が、次々と突き落とされていくのがはっきりと見えた。それでも駆け続けた。稜線の上に、はっきりと男の姿を見た。錦の御旗。帝。カイン。今度こそ本物の。刺すような眼でこちらを見詰めている。しかし、その奥にどうしようもなく悲しいものを写していた。刺すような眼は、来いと呼んでいる。悲しげな瞳には、明確に怯えの色が見えた。それで、かっとなった体を押さえられた。届かない。はっきりとそれが分かったからだ。とにかく抜けることだ。ここさえ抜ければ。とにかく抜けなければ。
 馬の腹を、股で締め続ける。敵とかち合う。戟の刃が耐えきれずにぼきりと折れた。刃をやり過ごし、体と体でぶつかりあった。両手で敵を馬から持ち上げ、他の敵に向けて放り投げた。腰から剣を抜く。痛みに顔をしかめた。敵を投げつけたときに、太股を刺されていた。敵、敵、敵。切り抜ける。切り抜けたと思ったところにも、まだ敵はいた。もう、味方に眼をやっている余裕はなかった。
 敵の槍を奪い、振り回した。とにかくがむしゃらに駆け続けた。槍を振り回し、それに当たった者は跳ね飛んでいく。剣も、いつの間にか折れていた。手綱はとっくに握っていない。股の力だけで、鞍にしがみついていた。刺された傷から血が噴き出していく。その痛みさえ忘れて槍を振り回す。
 赤かった。全てが赤かった。血が、ただ力が暴れていた。


 ……ふと、目の前が赤くなかった。緑の平原が続いている。なぜだ、と思った。世界は赤くはないのか。遮る敵がいない。抜けたのか。本当に、抜けたのか。急に腕が死んだように体にぶら下がった。その手の槍は、両端が途中から折れている。いつから抜けていたのか。他に、抜けられた者はいるのか。
 辺りには誰もいない。なにもない。平原。ただ緑の平原。突然、体が宙を飛んだ。地を転がり、反射的に立ち上がって振り返る。馬が倒れていた。その体には幾つもの傷を負っている。ルイスの体にも、いつ負ったかさえも分からぬ傷が無数にあった。
 傷だらけの馬の体に、ルイスは手をはわせた。ぐったりとしていて、口だけが大きく荒い息を吐き出し続けている。

「すまない。俺が不甲斐ないばかりに、無理をさせた」

 笑ったように、馬が一度声を上げた。あばよ。それで逝った。不意に込み上げてきた悲しさを、ルイスはなんとか飲み込んだ。馬は何頭も乗り換えてきた。父の牧場には、何百頭と雄馬がいた。それでも、ここまで心を通わせた馬はいなかったと思う。しかし、今は泣くときではなかった。何人の部下を失ったのか。いや、他に生きてあの場から逃げ出すことの出来たものはいたのか。全滅していても不思議ではなかった。せめて投降してくれていたら。生きていてさえくれていたら。
 一瞬だったのか、長いときだったのか、やがて微かに地を震わせる馬蹄が耳に届いた。一頭ではない。三か、四騎。明らかに人を乗せている。
 立ち上がり、手からはみ出た槍の柄を足で踏みつけて強引に引っぺがした。肘から先に、もはや感覚はない。ただ、全身が痛い。それだけが救いだった。腹に傷も負っているようだ。どれほどの深さかは分からない。
 それさえもなければ、生きているか死んでいるかさえ自分には分からないだろう。死は、生者をすべての苦しみから解放する。
 腰には剣もなかった。まったくの無手である。それでも、ただで死んでやる気はなかった。一人でも二人でも、道連れにしてやる。
 丘。一直線に近寄ってくる。三騎。飛びかかり、まず馬を奪ってやる。
 だんだんと妙なことに気付いた。殺気がない。それに、どこかで見たような顔な気がした。どんどん騎馬は近づいてくる。幻でも見るように、ルイスはその顔を見詰めた。

「良かった。ご無事だったのですね」

 ベリアだった。やはり全身に傷を負っている。全身を染める赤い血も返り血のみではないようだ。それでも眼の光は失っていない。そこに宿る力も失っていない。

「良かった。本当に、本当に良かった」

 その光を、ルイスは眩しいような思いで見詰め返した。


                   
           

 
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